日々のことなど 2002年4月


2002年4月26日、27日 三菱自動車工業の休みが、25日から。5月8日までだから、14連休と言うことになる。史上最強?早い話が作っても売れないってことだな。わが社も、それにおんぶしているものだから、合わさなければ仕事がない。
 そんなわけで、南紀方面の有名寺院の攻略に、けんちゃんとグランティスで出撃。夜中のフェリーに乗り、朝まだき、一気に和歌山を南下、那智勝浦を目指す。まずは西国三十三ヶ所第1番の青岸渡寺。参道入り口のみやげ物やさんの無料駐車場へ、店の人が誘導する。結局この店で今回の土産のすべてを調達するから、店の方のコストバランスは合っているはず。

             

 ここで西国の納経帖を調達し、巡礼をスタートさせることになる。西国のお寺は、遠いところを除けば、巡礼としてでは無いが、ほとんど回ってはいるのだけれど。この青岸渡寺の?葺きの本堂は秀吉が寄進したもので、重文建築。元は如意輪堂であったのだが、明治の廃物希釈のおりに大半の堂宇が壊されたために本堂となしたもの。本尊は如意輪観世音菩薩で天台宗。写真の三重塔は実は展望台なのだが、新緑に囲まれて那智の滝との調和が美しい。

               

 熊野三山のひとつである那智大社。明治以前には、この大社と青岸渡寺はひとつのもであったのだが、明治の神仏分離令で別れたのだ。この社殿も秀吉が再建したもので、熊野権現造り。

 駐車場から奥のほうへ、すぐに有料道路がある。と言っても狭い山道なのだが。道中、鹿が飛び出してきて驚かされた。ここの駐車場からの眺めがすばらしい。

               

 昨夜、嵐があったのか、もみじの落ち葉がたくさん張り付いている石段を登ってゆくと、やがて朱塗りの山門が見えてきます。

              

          

 女人高野阿弥陀寺。小さな本堂があるだけのお寺。ぼたんと石楠花が見ごろなのだが、これらも雨に打たれたのであろう拉がれているのが心苦しい。閑静ないいお寺である。本堂へ上がり、般若心経を唱え、納経する。
 大師堂は、左手奥にあるのでそちらの方へ歩くと、杉木立の中に苔むした石段が続いている。熊野古道の一部なのだ。

         
 
 山を下り、道路を引き返すと、国道に出る直前に、補陀洛山寺がある。

         

                  

 平安時代以降、ここの浜辺から「補陀洛渡海」に出たのだ。写真がそのときに使用されたと想像される船である。ずいぶんと小さい。補陀洛渡海が何を意味するか、現代の私にはわからない。平家物語に、「維盛入水のこと」という段がある。木曽義仲に都を追われた平家は、西国へ逃れるが、平維盛のみは、熊野へ詣で、さらにはこの那智勝浦の沖に身を沈めるのである。
 
 これから42号線を引き返すことになる。湯川温泉に、こましな銭湯を見つけていたのだが時間が早すぎるのであきらめ、橋杭にて遅い昼食。和歌山ラーメンを食す。結局風呂は、白浜の簡保の宿でいただく。500円也。空いていたので、ゆっくりとくつろげて、いい湯だった。田辺市内のスーパーで、夕食のネタを仕込み、道成寺を目指す。陽のあるうちに着いたのだが、車を止めて寝られる雰囲気では無いので、近くの運動公園へ移動し、そこで車中泊としゃれこむ。仕入れたネタで一杯やっているうちに酔いつぶれてそのままだ寝入ってしまった。朝、車の外で何かがごそごそしていると思ったら、狸だった。そして、朝のために買っておいたパンが、頭の薄いタヌキに食われてしまっていた。

 安珍清姫で有名な道成寺。開門前に着いたので、参拝客の姿はまだ無い。少しだけ小高い丘の上に、お寺は建っている。山門までの石段の感じが好ましい。

                  

               

 この日は、何かの祭りらしく、露天商が参道やら境内やらに店を準備している。開門と同時に宝仏殿へ入場。国宝の千手観音像がすばらしい。脇侍の日光月光菩薩も国宝。他にも、重文クラスが揃っている。今回の旅の中では、いい仏像が見られるのはここだけのはず。建物では、本堂と三重塔が重文。

 次は、西国第二番札所の紀三井寺。取り立てて見るべきものも無いので、納経を済ませて、早々に移動。紀ノ川を渡って、一路根来寺を目指して東進。県道7号から入ってまもなく、いきなり、新緑をバックにした大塔が見えてくる。すばらしい景観だ。写真を撮りたかったのだが、引き返すときにしよう思ったのがまちがいだった。

 根来寺は、平安時代後期に、覚ばん上人(興教大師)が、当時の高野山の状況をみて、真言宗の真髄を正しく伝えるべく創建した寺である。その後、根本道場として隆盛を極め、寺領72万石までになり、多数の僧侶が集まった。その警護に、多数の僧兵を擁したために、戦国末期には、豊臣秀吉の根来攻めとなり、堂宇の大部分を消失した。

                

 大塔は、秀吉根来攻めのさいに、残された唯一の建物で国宝。多宝塔としては、最大である。戦闘のときの鉄砲の弾の痕が残っています。

                        
 
 大伝法堂は、大塔と並んで建っているが、江戸時代に再建されたもの。 

                

 他には、ずっと離れたところに大門があります。とにかく広い。復元図が掲げられていたが、壮大な寺院だったのだが、今は森の中。

 
 急がなければ。西国第3番の粉川寺。

              

 ここも広いのだが、古いものはなさそうだ。納経所が混雑していて、時間を食ってしまった。紀三井寺で、帰りにすれ違ったバスの集団に先を越されたのだろう。続いて4番の槙尾山なのだが、ナビは、東進して橋本から山越えをするように指示している。地図を忘れてきたので、ナビに頼るしかない。紀見峠トンネルを抜けると河内長野、大阪府だ。少し右へ走ると、先年訪れた観心寺がある。もう一度行きたいが時間が許さない。170号を西行。途中に天野山金剛寺がある。

              

             

 観心寺とともに、建武の新政、楠氏にかかわりのある寺。後白河上皇の援助により再興され、金堂(写真奥の建物)はそのときの建物。手前の建物は、食堂(じきどう)で、南朝の後村上天皇の正殿であった。由緒が古いので、重文の建築物が多い。宝物も、楠正成の遺品をはじめ貴重なものが多数ある。
 楠氏と寺の関係について。鎌倉時代末期には、大覚寺統と持明院統のあいだで皇統争いが起きており、全国の寺もいずれかの側に加担していたと考えられる。ここ河内においては、大覚寺系が根を張っていたのだ。この地の豪族(正式には悪党)が楠氏であり、結果、南朝方(大覚寺統)に味方したのだ。

 時間が無い!槙尾山施福寺は細い山道を走らねばならないし、車を降りてからも厳しい山道を登らなければならない。時間が無い!ナビには出てこない。ままよ。幸い、国道に看板が出ていた。対向しかねる山道を走る。他に道は無いのだろうか、大型バスは絶対に入れないよ。粉川寺で出会ったバスはどこへ行ったのか?車を降りて上りかけたが、早くも息切れが。納経帖をけんちゃんに預け、先に行ってもらうことにした。学生時代に、ゼミの教授に連れられて、紀見峠からこちらへ縦走したことがある。あの時は、下りのみだったが、険しかった記憶が蘇った。日ごろの運動不足が堪える。タバコも、息切れの原因なのはわかっている。登りきったときには、納経所はしまりかけていた。

               

 東の方の展望が良くて、紀見峠や金剛山が遠望でき、学生時代の記憶を新たにした。


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