日々のことなど 2000年1月 

2000年1月10日 大麻比古神社に詣でた。初詣は趣味ではないが、なにぶんにも山の神が行こう行こうッテ言うもんで・・・!☆※?
 神社自体は、たいした興味はわかない。ただ、大麻比古神は全国的にもあまり無いのではないか?ただ最近では、御利益が均一化しているから、どこへ行っても同じだ、と思う。
 第1時世界大戦の時に、日本は連合側に与し、頼まれもしないのにドイツの東洋基地を攻撃した。中国にチンタオ(青島)というところがあって、ここを攻撃し、陥落させた。日本ではじめて航空機を使用し、爆撃(?)したのもここだ。このときの捕虜が900名あまり、この地、板東に収容された。板東収容所といわれれている。この捕虜達が、当時超貧しかった住民に、酪農やバターチーズの製法を教え、また、ベートーベンの第9を演奏したりして、文化的にも産業的にもいろいろと啓蒙したようだ。
 鳴門板東は第9の日本初演の場所として、現在では、おおいにもてはやされており、しょちゅう演奏されている。最近も、小沢征爾が振りに来ていた。(行けなかった、残念)コーラスはもちろん、そのあたりの好き者たち。
 捕虜達が残した遺跡が、この神社の境内にある。

            

 ドイツ橋である。小谷に石を積み上げて作った橋である。

                   

 ドイツの表記が古い。

             

 心願の鏡池と眼鏡橋。地域住民のために作ってくれたらしい。なるほど、日本庭園とはおもむきが異なっている。(さりげなく写っているのはだ〜れ?)

 このページも、徳島の紹介か、歴史のうんちくの披露か、だんだん怪しくなってきてるようなきがする。

 時間があったから、北灘にある葛城神社まで足を延ばした。目の神様である。最近パソコンのやりすぎかどうか、老眼がやばくなってきた。
目のお守りを買ってきて、モニターの右上に貼り付けた。御利益がありますように・・・・。 



2000年1月9日 時間があったので、平島公方の墓所である西光寺へデジカメ写真を撮りに行ってきた。何年か前にNHKで太平記を扱った大河ドラマがあったが、そのときには太平記の世界などといって少しだけ騒がれた。行政も相乗りしたようだ。実際には太平記とは直接関係ないのに。
 応仁の乱の後、足利将軍の跡目争い(と言うよりも部下の勢力争い)から、第10代将軍足利義稙が阿波で再起しようとしたが、果たせず当地で病死。その長男義冬以後阿波公方としてその系統が存続する。更にその長男義尚は三次氏に担がれて入京、将軍になるが、織田信長に追い落とされれた。その遺跡もただこの西光寺に、墓所として残っているだけ。

            

 西光寺山門。左手奥の方にコンクリート製の本堂がある。昭和17年に旧本堂が焼失し、国宝の阿弥陀如来や過去帳なども同時に焼けた。
山門内には仁王像が、朽ち果てる寸前になっているが、訪れる人もないこの寺では、復旧保存など望めまい。

            

 左から第14代将軍足利義尚、初代阿波公方足利義冬、第10代将軍足利義稙。

            

 通路を挟んで上記の反対側には、2代目以降の墓がある。全部で23基あるのだが、資料の消失により名前が確定できるのは14基だけである。



2000年1月6日 今日は少なからぬカルチャーショックを受けた。徳島銀行の担当Y君にパソコンをはやく買えなどと言っていたら、発注しているとのこと。で、何が出来るなどと説明しているなかで、ジョイスティックで「ゼロ戦を飛ばせて・・・」と言ったときに、「ゼロ戦って何ですか?」と聞き返されて、思わず絶句してしまった。日本男児たるもの、知っていてしかるべきだと思いこんでいた。と、戦艦大和と。

                   

 日本帝国海軍零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき):紀元2600年(昭和15年)に制式採用されたので、れい式と言う。日本では「れいせん」と呼ばれていた。アメリカのコードネームは「ジーク」。ゼロファイターとも。「ぜろせん」と呼ぶのはもっと後と思われる。
                   機体設計製造:三菱航空機(現三菱自動車など)
                   エンジン:約1000馬力中島飛行機(現富士重工→スバル)
                   機関銃:20mm2門、7.7mm2門(当時としては最強)
                   最高速度:約500Kmあまり
                   航続距離:最大約3000Km(当時としては異例に長い)
                   運動性能:当時最高
                   製造数:約10、000機(日本最高)
 デビューは中国戦線で、12機で約30機の敵を撃滅、被害なしと華々しかった。次がパールハーバー奇襲作戦で、映画「トラトラトラ」に出ている。同じくフィリピン空襲で、台湾からマニラまで無給油で往復。在アメリカ軍は付近の海上を、航空母艦がいないか探し回ったらしい。以後半年くらいは無敵で、西はセイロン島、南はオーストラリアダーウィンと、出てくる敵をばったばったとおとしていった。昭和18年になると、アメリカは2000馬力の戦闘機を大量に配備したので、今度は落とされる役回りになったが、当時の日本の国力では後続が無く配線まで主役であり、最後は特攻機として、フィリピンや沖縄で散っていった。
 上野公園内の科学博物館に実機が展示されている。他にも何機か存在し、アメリカには飛行できる機体が1機ある。
 写真は、プラモデルから娘が「当時の写真らしく」作ったのもです。機体は最後期のモデルである。



2000年1月3日 久々に筆(?)を取る。ゲームにいそがしくって、もちろんその間はCDは鳴りっぱなしだが、HPなど何処へ行ったのでしょう?早い話が寝正月と変わらない。
 久々にけんちゃんと鳴門へ釣りに行ってきた。わずか1時間足らずだが、うれしいことに、15cmほどのグレがお互いに釣れた。超極端な言い方をすれば「入れ食い」だ。今年はさい先が良い(などと勝手に想像したりなんかして・・・)。
 ところで、「Y2K」いわゆる2000年問題だが、結局どうだったんでしょう。新聞では「大きなトラブルはなく」なんて書いてあったし、我がPC群も今のところトラブッっている気配はない。結局、waiの最大の被害は、飲料水確保のために一升瓶を空けるために残っていた<純米鴨鶴>をグラスに移し替えて、流しに置いておいたのだが、除夜の鐘を突いて帰って、飲もうと思ったら、影も形も無かった。間違えて捨てたとのことだ。
「おとうさん、ごめんね」、後で言っても遅いって・・・。


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