ドイツ橋である。小谷に石を積み上げて作った橋である。
ドイツの表記が古い。
心願の鏡池と眼鏡橋。地域住民のために作ってくれたらしい。なるほど、日本庭園とはおもむきが異なっている。(さりげなく写っているのはだ〜れ?)
このページも、徳島の紹介か、歴史のうんちくの披露か、だんだん怪しくなってきてるようなきがする。
時間があったから、北灘にある葛城神社まで足を延ばした。目の神様である。最近パソコンのやりすぎかどうか、老眼がやばくなってきた。
目のお守りを買ってきて、モニターの右上に貼り付けた。御利益がありますように・・・・。
西光寺山門。左手奥の方にコンクリート製の本堂がある。昭和17年に旧本堂が焼失し、国宝の阿弥陀如来や過去帳なども同時に焼けた。
山門内には仁王像が、朽ち果てる寸前になっているが、訪れる人もないこの寺では、復旧保存など望めまい。
左から第14代将軍足利義尚、初代阿波公方足利義冬、第10代将軍足利義稙。
通路を挟んで上記の反対側には、2代目以降の墓がある。全部で23基あるのだが、資料の消失により名前が確定できるのは14基だけである。
日本帝国海軍零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき):紀元2600年(昭和15年)に制式採用されたので、れい式と言う。日本では「れいせん」と呼ばれていた。アメリカのコードネームは「ジーク」。ゼロファイターとも。「ぜろせん」と呼ぶのはもっと後と思われる。
機体設計製造:三菱航空機(現三菱自動車など)
エンジン:約1000馬力中島飛行機(現富士重工→スバル)
機関銃:20mm2門、7.7mm2門(当時としては最強)
最高速度:約500Kmあまり
航続距離:最大約3000Km(当時としては異例に長い)
運動性能:当時最高
製造数:約10、000機(日本最高)
デビューは中国戦線で、12機で約30機の敵を撃滅、被害なしと華々しかった。次がパールハーバー奇襲作戦で、映画「トラトラトラ」に出ている。同じくフィリピン空襲で、台湾からマニラまで無給油で往復。在アメリカ軍は付近の海上を、航空母艦がいないか探し回ったらしい。以後半年くらいは無敵で、西はセイロン島、南はオーストラリアダーウィンと、出てくる敵をばったばったとおとしていった。昭和18年になると、アメリカは2000馬力の戦闘機を大量に配備したので、今度は落とされる役回りになったが、当時の日本の国力では後続が無く配線まで主役であり、最後は特攻機として、フィリピンや沖縄で散っていった。
上野公園内の科学博物館に実機が展示されている。他にも何機か存在し、アメリカには飛行できる機体が1機ある。
写真は、プラモデルから娘が「当時の写真らしく」作ったのもです。機体は最後期のモデルである。