観心寺紀行 

 いつの頃からかだろうか、観心寺へ行ってみたいと思いだしたのは。奈良や京都の古刹は、たびたび巡っているが、大阪にはこれといった古寺が残っていないと信じていた。
 太平記を読んでいるとしばしば出てくる、楠正成ゆかりの名刹。地図で見ると、大阪府の南東端、金剛山の麓、なるほど千早城や赤坂城が近い。交通の便は余りよくなさそう。河内長野の駅からも結構ありそうだ。いろいろと書物をあさると、古仏がたくさんある、太平記記述の遺跡や遺物も多い。ぜひ行ってみなければ。

 閑静な境内。ちらほら見かけるのは画板を持った子供達、夏休みの宿題の写生かな。照りつける真夏の太陽とセミの声。金堂への石段の両脇の、かえでの青葉が目にいたい。もみじの頃は、どんなにか美しいことだろう。
 山門から入る。古刹にありがちな受付がなくとまどう。拝観料は備え付けのカンに入れればいい。パンフも自由に取る。この時期はきっとオフなのだ。
 それにつけてもたくさんのもみじの木。その葉の間から、石段の上の朱に塗られた金堂がかいま見える。その金堂へは向かわずに、宝物館(霊宝観)に直行する。外見は古そう、大きくもない。入り口には監視の人もいない。我々二人だけ。陳列ケースもがたがきている。しかしながら、そこに並んでいる十数体の仏像群は、おおむね重要文化財に指定されているものばかり!無造作というか、無頓着というか。さらに、正成奉納の腹巻。これも重文指定。

 
                                  
 
 なぜこんなに多くの古仏があるのか?しかもこんなへんぴな地に。
 奈良時代に役の行者により草創されたものを、平安時代の始めに空海が寺号を観心寺と改め、弟子達が大々的に拡張したとある。当時は山岳仏教がさかんであったから、へんぴなのは当然なのだ。本元の高野山はとんでもなくへんぴにある。空海にとっては、高野山と京都をむすぶ中継基地として重宝だったらしい。当時の交通事情がどんなだったか、現在、寺の前を通っている、金剛山の横手をめぐって五条に至るR310からすると、まったく想像だにつかない。山奥の寂れた村々を巡っているバス道という感じだ。空海当時の交通は徒歩であったから、河内国内の水路が発展していたのかも知れない。五条から奈良県を中央突破すると地図上では一直線だが、それは現代人の考えで、道路事情がよろしくなかった中世では、水路が使えれば、よほど楽だった。石川川→大和川→淀川と伝わっていけば、金剛越えは、苦にはならなかったのではないか。
 今、わずかに二坊しか残っていない塔頭も最盛期には六十余坊もあったほどの大寺院であったのだ。空海の関係で、平安時代には朝廷からの援助もあり、たいそうな繁栄であった。当然、朝廷の側についた寺院であったため、朝廷の権威の失落とともに寺院も衰退してゆく。鎌倉時代の末期、この近隣より楠正成が興り、後醍醐天皇に味方したため、この寺院は足利幕府ににらまれ、さらには、織田信長や徳川幕府からも圧迫を受け、 凋落していった。その中で、わずかに残ったのが、金堂などのわずかの建物と、国宝如意輪観音と十数体の重文仏像群だけなのだ。
 もっとも、我々が享受している国宝や重文にしても、過去における天災や戦災はたまた人災を、幸運と偶然でかいくぐってきたものであって、当時の最高傑作のみが今に伝えられたものでは決してないという事実を心しておくべきであろう。
 
 私は、観心寺を楠正成の寺として捉えている。
 金堂の東側に、建掛の塔がある。奇妙な形で、他にこのような建築物を見たことがない。方形で、白壁、四面に扉がある。屋根は草葺きで、ちょとんと乗せてある。軒裏がないので、換気は最高にいい。まるで南洋の屋根みたいだ。
 建武の中興が成ったとき、正成がこの寺に、三重の塔を寄進しようとしたのだ。ところが、建武の新政が破れ、九州より進撃してきた足利尊氏を、神戸の湊川に迎撃した正成は敗死した。がために、建築途中であった三重の塔は、完成することなく放棄された。一階部分だけできあがっていて、まだ屋根は着いていなかったのだろう。それで、仮の草葺き屋根を乗せてあるのだ。
 流れ行く歴史の一こまが、目の前にこれ見よがしに残っている。
 さらに東側に、正成の首塚がある。京にさらされた、敗将の首を、尊氏のはからいで返され、この地に葬ったのだ。

                                                                                           

 記憶をたよりに書いてるが、その記憶がだんだん薄れていきいきつつある。

 新待賢門院(阿野廉子)の墓所がある。後醍醐天皇の寵姫で、後村上天皇の生母であった人。一般に毒婦とか悪女として知られている。後醍醐の失政や、衰亡の中にある南朝において、女としてのよからぬはかりごとを巡らしていたとしても、不思議ではなかろう。後村上の御陵も同地にある。母子が同じ地に眠っている、南朝の終焉の地でもあるのだ。

 金堂は、朱丹が鮮やかで、軒の張り出しが大きいため、実に華麗に見える。改造や修理を施したために、現在のような姿になったのだ。本尊は、上述の如意輪観音で、秘仏であるために、限られた日にしか拝することはできない。
 数百年前に、正成がしたように、階段の上から見渡す。大勢の部下が額ずいていただろう境内は、閑散としたまま。
 

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