全国「国府」フォーラムを聴講して
1998年10月10日、表題の第1回の講演が開催されたので、聞きに行った。主旨としては、古代阿波国の国庁(以前には国司庁と表記した)がどこにあったか、と言うことだと思われる。思われるというのは、短時間のことでもあり、パネラーの諸先生が全国的な一般論に終始したことによる。コーディネーターの木原鳴教教授が比較的わかりやすいと思われたが、立場上押さえていたようだ。一山徳島考古資料館館長も、位置の特定については、たじたじであった。
一般的なと述べたが、私にとっては貴重なことで、国府の歴史的変遷や、交通路から見た国府の捉え方、初期国府の成立などと一気に思考範囲が広がった思いである。木原教授が最後に言っていたように、もっとわかりやすく、かみ砕いた説明にすれば、更に共感が得られたことと思われる。どうも、イベントのためにとってつけた講演の感があった。
国庁(以前は国司庁と呼んでいたと思う)の位置については、解ったような解らないような、実際には特定できていない。頻繁に発掘が行われているが、上手い具合には堀当たらないのだろう。
講演を聴いていて思ったのだが、義経の項で、国庁に触れたが、実際に発掘史例からみて国庁は廃止されていたと考えられる。桜間城などが、政務の中心では無かったろうか。配布してもらった地図を眺めると、観音寺から矢野にかけて碁盤目状が窺えて、条里制の跡のような気がする。この中に道が一本通っていて桜間にも沿っていたのではないか。
もう一つ、建築以来不変だと思っていたために、今まで気にもとめなかったが、国司が支配する国庁の名称が出来たから国府があるのであって、国司の名称が無ければ、国庁も国府もない。国司が阿波に初めて赴任したのはいつのことだ?
観音寺遺跡出土の木簡
会場に上記のパネルが掲示されていた。
最初の物は、持統三年(689年)であることを書いてある。
2つめは麻殖評と書いてあるが、麻植のことで、評(郡)が違うから阿波国全体を支配していたことを証明している。また、評は大宝律令(702年)の施行により郡に改められてからそれ以前のものであることが解る。
3、4つめとは、税額がかかれている。
論語の一部が書かれている。
この他に、出土の銅鐸と神獣鏡のレプリカが展示されていた。
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