1871.3.28 | オランダ・ユトレヒト市に生まれる。両親ともドイツ人。 |
1888 | ユトレヒト音楽学校の後、ケルン音楽院に入学。ベートーベンの弟子シントラーの一番弟子フランツ・ヴュル
ナーに師事。ベートーベンの総譜を研究。ベートーベンの曾孫弟子ということになる。 卒業後、ケルンのギュルツェニッヒ管弦楽団を指揮してデビュー。 |
1892 | ルツェルン市音楽監督に就任 |
1895.10.24 | 1888年にコンセルトヘボウ管弦楽団を創設したウィレム・ケスの告別演奏会において、独奏者としてリストのピアノ協奏曲第1番を演奏。
この年、ケスの後任としてACOの常任指揮者に就任。その後50年にわたって、その地位にいた。 次第にグリーグ、マーラー、R・シュトラウス、指揮者のハンス・リヒターに認められる。 |
1897 | チャイコフスキーの<悲愴>を聴いたグリーグが感激する。 |
1898 | アムステルダム・トーンキュスト合唱団指揮者に就任。ACOを率いて、ロシア、ノルウェー、イタリアに演奏
旅行。 |
1899 | パルム日曜演奏会で<マタイ受難曲>を演奏。その後毎年一度、そこで同曲を演奏する。
毎年、ベートーベン演奏会を開催し、カール・ムック、モントゥー、ワルターを客演指揮者に迎えた。 |
1902 | 初のオランダ音楽祭を開催。 |
1904 | マーラーをACOに招いた。第4交響曲を演奏。 |
1905 | アメリカに渡り、ニューヨーク・フィルを指揮。 |
1907 | フランクフルト・アム・マイン市の博物館演奏会協会で客演指揮。1920年まで続く。 |
1908 | 聖チェチィーリア教会演奏会で客演指揮。 |
1912.11 | ロンドンのロイヤルフィル協会に招かれて渡英、RPOを客演指揮。 |
1913 | 再びオランダ音楽祭を開催。 |
1920 | ボダンツキーに招かれて、ニューヨークのナショナルsoを客演指揮。同soは、メンゲルベルクの提案により
ニューヨーク・フィルと1922年に合併。 アムステルダムでマーラー音楽祭を開催。 |
1922−30 | 新編成のニューヨーク・フィルの常任指揮者に就任。同オケの演奏水準を高めたが、後にトスカニーニにそ
の席を奪われる。 |
1928 | ニューヨーク・コロンビア大学名誉博士号を受けた。 |
1931 | エデュアルト・ヴァン・ベイヌムを副指揮者に起用。 |
1933 | ユトレヒト大学音楽教授に任命された。 |
1935 | 第3回オランダ音楽祭を開催。 |
1938.1.27 | ロイヤルフィル協会の招きにより、ロンドン・フィルを指揮。 |
1945 | 第2次世界大戦後スイスに亡命。 |
1951.3.21 | 亡命先で死去。 |