義経遺跡


 1185年、都より落ちのびた平家は讃岐八島に隠っていた。2月17日、これを背後より奇襲すべく源義経は阿波小松島に嵐を衝いて上陸する。当時の阿波国には阿波国司庁の近くの石井町桜間に、阿波民部重能(あわのみんぶしげよし、田口成良)が桜間城を構えていた。が、重能は平家の命により伊予方面へ河野四郎通信(こうのしろうみちのぶ)を撃つべく出兵しており、城は弟の桜庭介能遠(さくらばのすけよしとう)が守っていた。義経軍はこれを急襲し一撃で粉砕する。その後、八島まで急進撃して行き、ついには四国より追い払い、長門壇ノ浦で平家は滅亡をむかえることになる。
 国司庁の北西あたりに舌洗いという遺跡がある。たぶんここで休憩し馬に水を使い、突撃の準備をしたのであろう。
                      
     

 waiが小学生の頃は、きれいな水がこんこんと湧いており、近所のおばさんたちが台所用水として使っていたように思う。
 
     

 雨の中でとったのでわかりにくいが、史跡公園で写っていた気延山を北側から見た。中腹に鳥坂城址がある。義経軍も使ったか。左に建物の奥あたりが舌洗い。撮影位置の背後1Kmぐらいに桜間神社(お石)がある。

     

 桜間神社(お石)。義経とは直接関係がないが、桜間城はこのすぐ近く(のはず)。確認していない。この東2Kmぐらいに花園という地名があるが、平通盛の花園館があった所と言われている。古代は徳島平野(旧徳島市域)は形成されておらず、吉野川河口がこの国府あたりにあり、港もあったのではないだろうか。そう考えると、この地に国司庁があった理由がみえてくる。
 なお、国府町以外にも、徳島県内には義経伝説の地が各所たくさんにあるということを書き加えておく。
 

〈番外編〉
 甲冑が見たくなり、しまなみハイウェイが貫通したこともあって、大山祇神社まで一走り行ってきた。平成11年6月27日。
 しまなみハイウェイには、めぼしい観光地がないのか、大山祇神社が観光地化されており、駐車場は観光バスがいっぱいで、ぴかぴかの土産物屋さんが軒を並べていた。
 神社自体は、奈良や京都に比べると、けっして大きなものではない。しかしながら、宝物館に展示されている武具は、ほぼすべて、国宝または重要文化財である。日本国内の大半が、ここにあると言われているが、さもあらん。重文以下はざっと見て、国宝のみをじっくり見学しても、けっこう疲れる。
 古代から中世にかけて、武将達が奉納したもので、甲冑・刀剣・弓矢・鏡・など。奉納者は、斉明/天智天皇・藤原佐理・鎮西八郎為朝・源頼朝・源義経・平重盛・河野通信・木曽義仲・弁慶・巴御前・後醍醐天皇・護良親王・脇屋義助・村上義弘・藤堂高虎・加藤嘉明などであり、日本史の教科書に出てくる名前がいっぱいの、とんでもないところだ。
 義経奉納の赤絲縅鎧を見るのが今回の目的であった。この3階のコーナーには他に、沢潟縅鎧・頼朝奉納の紫綾縅鎧・通信奉納の紺絲縅鎧−これは極上の逸品−があって、感嘆のため息が出るばかりである。
 この義経奉納の赤絲縅鎧は、他の3点と比べると、実は、いわゆる大鎧(式正鎧、著長)ではなくて、胴丸との折衷風の胴丸鎧と言うべきものである。類例は無いらしい。パッと目には大将の着用する赤絲縅の鎧であるが、よく見ると、下級武士が着用する胴丸風である。<八艘飛びの鎧>ともいわれるから、海戦用に開発されたとの説もあるがそうではない。騎乗戦では大鎧が有利だが、徒歩戦では胴丸の方が足さばきが良いので、折衷用となって現れたか。
 義経はこの鎧を、壇ノ浦において平家を滅亡させた帰路の戦勝報告で奉納したのであろう。

 販売コーナーで写真集を何冊か買ってきた。その中の、<大三島の胴丸>の表紙が義経の鎧である。

 参考までに国宝の鎧をまとめました。

 宮島にも、平重盛や源為朝の甲冑があるので、20年ほど前にも行ったことがあるのだが、またまた厳島神社まで行ってしまった。平成11年7月26日。
 結論から言うと、目的は達せられなかった。常設としては、展示されていません。事前の調査をすべきであった。反省。
 宝物館の職員の方のお話では、神社には大量の国宝や重文があるのだが、神社の方針としては、「神社だけを拝んでもらえればいい。美術館や博物館のまねごとはする必要がない」だそうで、年に2〜3回の特別展でわずかだが公開されるので、その時に行き当たるといいが、と言うことでした。刀剣などは、宝物館の倉庫に、錆びたままで山積みされているのだそうです。
 確かに、文化財を公開すると言うことは、経費もかかるし大変な事だが、法隆寺やら興福寺やら、有名なところはおおむね、宝物館で国宝を常設展示しているのだから、世界遺産になった厳島神社でも、その努力はしても、損には成らないのではないか。
 
 
 
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